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      <title>DREAM ON</title>
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      <description>どこまで夢を提供してくれるのか…？</description>
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         <title>個室文化が子どもの心身をむしばんでいる</title>
         <description>自分の部屋をもっていない中学生は10人にたったひとり・・・。


厚生省が全国約6200世帯を対象におこなった「児童環境調査」によると、中学生の56・7パーセントが専用の個室をもち、31.5パーセントは兄弟と共同の部屋をもっています。


個室をもっていない子はわずか11・8パーセントという結果がでました。


自主性を育てるため、勉強に専念できる、能率もあがるといった理由から、子どもたちの個室文化はすっかり根づいた感がありますが・・・


じつは個室が子どもの健康をむしばみ、非行にはしらせる原因のひとつになっていることをご存知でしょうか。


個人主義、個室文化の先輩であるアメリカでは、個室はあっても、ドアはオープンにしておくことが原則となっています。

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         <pubDate>Mon, 02 Jan 2012 12:05:57 +0900</pubDate>
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         <title>アメリカ資本主義の発展の基礎　4</title>
         <description>当時の都市人口は、人口の5・5%にすぎませんでした。


当時の大都市といえばフィラデルフィアとボストンでしたが、どちらも人口は2万5000人を超える程度でした。


製造工業が発展するには何よりもインフラストラクチャーの整備が必要であったことは、今日の開発途上国と変わるところはありません。


インフラストラクチャーの整備、とりわけ輸送手段の開発が若い独立国アメリカにとっては急務でした。


イギリスの対米投資もこの面に集中しましたが、とくにその初期において、それぞれ地場の商人や農民の積極的な協力があったことも忘れられてはなりません。


五大湖とミシシッピ川水系と大西洋岸諸河川を高度に利用した、運河を含む水路のネットワーク、蒸気船の登場、有料道路の開設、東部海岸諸港の整備などがありました。


さらに鉄道も東海岸からミシシッピ川に到達し、中西部発展への道を開きつつありました。


ここで興味あるのはイギリスから移転された蒸気機関の技術が、アメリカの場合には製造業に向かわず、まずインフラストラクチャーの整備（水運や鉄道）に利用されたことです。

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         <pubDate>Fri, 09 Dec 2011 17:35:31 +0900</pubDate>
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         <title>アメリカ資本主義の発展の基礎　3</title>
         <description>前者を代表してジェファソンが、後者の先鋒がアレクサンダー・ハミルトンでした。


アメリカが今日の開発途上国と同じように、植民地経済・・・


宗主国への原料・食糧の供給源としての従属的地位から離脱するためには、ジェファソンの農本主義的な考え方にとどまっているわけにはいかなかったのです。


しかし、南北戦争までは、工業化は急速に進みつつあったとはいえ、基本的にはアメリカは農業国にとどまっていたし、植民地経済から離脱しているとはいえなかったのです。


アメリカがイギリスからの真の経済的独立を求めて、より高い発展段階に向けてテイクオフするためには、資源産業ばかりではなく、インフラストラクチャーを充実し、製造工業、とりわけ輸入品依存から脱するための輸入代替産業を確立する必要がありました。


その成否を握るのが、資本や労働力ばかりでなく、新しい技術の導入であったことはいうまでもありません。


19世紀のアメリカは、基本的には農業国でした。


19世紀はじめには製造業は無に等しいものでした。


その労働人口に占める比率もわずか3%にすぎず、それも主として農林産物の加工でした。


独立後の1790年の人口は400万人足らずで、ヨーロッパの大国フランスの2700万人、イギリスの1400万人、スペインの1000万人に対し、及びもつかなかったのです。

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         <pubDate>Wed, 23 Nov 2011 17:34:49 +0900</pubDate>
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         <title>アメリカ資本主義の発展の基礎　2</title>
         <description>イギリスの産業革命は周知のように18世紀の後半に起こりました。


1830年ごろにはイギリスは文字通り「世界の工場」としての絶対的地位を確立し、その後少なくとも半世紀、おそくも第一次世界大戦の勃発までは、世界に冠たる工業国としての地位を保ちつづけたのです。


イギリスの産業革命の影響を直接受けたアメリカは、それによって移転された技術を著しく異なった条件と環境の「社会マトリックス」のなかに組みこんで、大きく開花させました。


ローゼンバーグが述べたように、技術移転そのものも決して容易なことではなかったうえに、その成否は多くが異なった環境下で、技術の選択、適応、修正という複雑な過程を通して、その機能を有効に発揮するというアメリカ人の能力にかかっていました。


工業立国の選択アメリカには独立のとき、すでにいわゆる「建国の始祖」といわれる人びとの間にも、経済開発の基本思想をめぐって、2つの対立がありました。


このような対立は基本的にはその後の政治過程においては解決されずに、むしろその対立を深めつつ、アメリカ社会の中に内在していました。


それは南北戦争によってはじめてその選択を決せざるを得なかったのです。


その対立とは、アメリカを基本的に農業立国とするか、工業立国とするかの選択をめぐってでした。

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         <pubDate>Sat, 22 Oct 2011 17:23:27 +0900</pubDate>
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         <title>吉兆の前兆</title>
         <description><![CDATA[
道家の主要教典の一つである『抱朴子』内篇巻之十八、地真に・・・


「人ヨク一ヲ知レバ万事畢ルト。


・・・金ハ沈ミ、羽ハ浮カビ、山ハンバダチ、川ハ流ル。


コレヲ視レドモ見エズ、コレヲ聴ケドモ聞エズ。


コレヲ存スレバスナハチ在リ、コレヲユルガセニスレバスナハチ亡シ。


コレニ向カエバスナハチ吉ナリ、コレニ背ケバスナハチ凶ナリ、コレヲ保テバスナハチ長クツヅクサイワイキワマリナク、コレヲ失エバスナハチ命シボミ気キワマル。


老君ノ日ウ、忽タリ慨タリ、ソノ中に象アリ、慨タリ忽タリ、ソノ中二物有リトハ、一ノ謂イナリ」


・・・とあるのも、吉兆の前兆の理であります。


<a href="http://www.uranai-king.com" target="_blank">電話占いの詳細は＞＞</a>



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         <link>http://pgvlaw.com/2011/09/post_40.html</link>
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         <pubDate>Fri, 23 Sep 2011 18:00:53 +0900</pubDate>
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         <title>森林文化と照明　2</title>
         <description><![CDATA[「ワラビ・クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法・・・


茶の葉を加工して飲用する慣行。


マユから糸をひいて絹をつくり、ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて漆器をつくる方法・・・


そして、柑橘とシン類の栽培とその利用、麹を用いて酒を醸造することなど」。


・・・これらがその主なものとしてあげられています。


しかし、なによりもこの照葉樹林地域の文化を特色づける点は・・・


サトイモ、ナガイモなどのイモ類のほか、アワ、ヒエ、シコクビエ、モロコシ、オカボなどの大量の雑穀類を栽培する焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたことです。


生活が支えられているといえば、<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>などの照明も重要ですね。
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         <pubDate>Thu, 15 Sep 2011 11:59:03 +0900</pubDate>
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         <title>森林文化と照明</title>
         <description><![CDATA[「照葉樹林文化とは・・・


ヒマラヤ山脈の南麓部、高度1500メートルから2500メートルほどのところに、日本のそれとたいへんよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある。


そこからこの森林は、アッサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに揚子江の南側(江南地方)の山地をへて日本の西南部に至る・・・


東アジアの暖温帯の地帯にひろがっている。


この森林を構成する樹種は、カシやシイ、クスやツバキなどを主としたもの。


いずれも常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので「照葉樹」と呼ばれている。


この照葉樹林帯には多くの民族が住んでいるが、その生活文化の中には数多くの共通の文化要素が存在する」。


・・・そのことに、最初に注目したのが中尾さんです。


<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>のような照明と森林は深く関わっているのです。

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         <link>http://pgvlaw.com/2011/08/post_39.html</link>
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         <pubDate>Sat, 06 Aug 2011 11:57:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>左官工事と外壁リフォーム　2</title>
         <description><![CDATA[仏堂と経蔵で役夫が担当した同じ下塗を、僧房においては土工が行なっています。


6棟のうち最も重要な施設であったと考えられる仏堂に関し、非専門職である役夫が施工し、幾分とも格の下る僧房に専門職の土工を当てたことは一見奇異に感じられますが・・・


その矛盾は次のように考えれば理解されるでしょう。


まず仏堂は重要でありますが故に、部分的には中塗で停められるところがあったかもしれないのですが、原則として上塗までを行なう、いわゆる本格的な左官工事が適用されたのでしょう。


この場合、中塗さえ完全に施工しておけば、そこで停めるときはもちろん、後に上塗を行なう場合でも良好な最終仕上げを期待することができます。


ここで若干技術的な説明を加えておきますが、上塗厚は各時代の遺構に徴しても現行の左官工事でも、せいぜい5ミリ以内です。


現代でいう<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>のようなものですね。


・・・このように薄いものですから、仮に中塗面に不陸等があれば、それはそのまま上塗後に欠陥として露呈されます。


逆にいえば、中塗を完全に施工しておけば、上塗はおのずから良好な仕上りを期待できます。


しかも中塗は少なくとも数センチの厚さをもつから、下塗面に相当大きい不陸があっても、これをその厚さの間で吸収することが可能です。


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         <link>http://pgvlaw.com/2011/07/2_5.html</link>
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         <pubDate>Sat, 02 Jul 2011 13:46:30 +0900</pubDate>
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         <title>左官工事と外壁リフォーム</title>
         <description><![CDATA[土工は仏堂と経蔵の壁に関しては中塗しか行なっていません。


しかし中塗という以上、その前段階に下塗工程がなければなりません。


しかるに土工はこの工程に当っていないから、他にこれに従事した職種が存在したはずです。


そのような観点から一連の文書を検討すると、まず仏堂に関し「役夫」の功として・・・


1．28人が壁桟用に


2．133人が壁土の混練と下塗に


3．延べ97人が中塗用黄土の運搬と混練に。


・・・次に経蔵に関しては・・・


4．11人が壁下塗に


5．38人が中塗土と下塗土の運搬と混練にそれぞれ計上されています。


つまりここでは役夫が壁下地の作成に始まり、下・中塗土の運搬と混練、そして下塗の施工までを担当していたわけで、土工がこの仕事から外されていた理由が判明します。


なお下地と土の混練に関しては、僧房も同じ事情にあります。


この時代にはもちろん<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>技術はまだ存在していません。


・・・ここで役夫というのは、以上の作業の内容からも推測できるように、特に専門的な技能を持たない一般労務者と考えられます。


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         <link>http://pgvlaw.com/2011/06/post_38.html</link>
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         <pubDate>Sat, 25 Jun 2011 13:45:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカ資本主義の発展の基礎</title>
         <description>アメリカ資本主義が発展するためには多大の技能、機械力、技術知識が必要でした。


「技術は常にそれぞれ相異なる地理的環境の状況に加えて、技能や管理能力や組織形態における相違を含む社会マトリックスの中に組み込まれるのです。


その結果、技術移転の成功はある地理的場所から別の場所への一片のハードウエアの単なる輸送を意味するものではありません。


それは多くの場合、選択、適応、修正の複雑な問題を意味しており、これによって技術輸出国とは異なる環境で技術の機能を有効に発揮することができたのです。」


・・・これに加えてローゼンバーグは、資源の副次的な相違が基本的な技術変革を呼び起こすことや、補助的なサービスや設備（たとえば適切なメンテナンス、修理、部品の取り替えなど）が必要であることを指摘。


技術移転が広範な連続的ならびに相互的過程であることを強調しています。


・・・このような点からみて、「アメリカ人は借用パターンで著しく傑出しており、輸入技術が持つ利用方法では優れて選択的であった」(ローゼンバーグ)ということができます。


当時の「後進国」アメリカに対して、イギリスの産業革命が与えた影響がいかに大きかったかについては、異論を差しはさむ余地はありません。

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         <link>http://pgvlaw.com/2011/06/post_32.html</link>
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         <pubDate>Wed, 08 Jun 2011 17:22:20 +0900</pubDate>
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         <title>終戦直後の農村　4</title>
         <description>その地主のところに村の若者たちが大勢で乱入して、馬の足を折ってしまった・・・。


ちょうど春の馬耕の時期に入るときに馬が足をけがして歩けないということは大打撃になる。


そんなことをやったもんですから村の中が騒然となるのも当然です。


そして、30何人の青年の親たちが、私の息子はやるつもりでなかったけども、あれは煽動されて・・・と隠れて地主の家にあやまりに行くのが出た。


ところが、心の中では地主の圧迫に怒りの気持ちをそれぞれ持っているから、陰で拍手し歓迎する親たちもあったわけです。


このように村の中では大きな事件になりましたが、地主たちが3日後に倉を会館として開放する、と折れてきた。


それは恩賜郷倉ということで国からもらった補助金を私物化していたことが発覚すると、当時といえども戦後の民主化の声が高まりかけたときだけに大きな事件となるわけですから、それを恐れたのでしょう。


使ってもいいということになりました。


会館開放の喜びと同時に、その後、村の中で地主の権威は急速に失墜していくわけです。


その後、農民組合が結成され、組合の推薦で小作人たちが村会議員、農業委員、農協理事に全員当選するようになり、戦後の民主政治の勢いがついていった。


若者が起こした会館開放闘争は村の中で地主を恐れない、村の民主化の一つの夜明けを告げた行動でもあったと思っています。

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         <pubDate>Fri, 27 May 2011 12:55:08 +0900</pubDate>
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         <title>終戦直後の農村　3</title>
         <description>ところが何回交渉しても承諾の返事をもらえなかった。


当時の記録によれば地主との交渉談判は42回に及びましたが、貸してもらえなかった。


村の大人たちもそれは欲しいとは思うけれど、地主ににらまれ気嫌をそこねるとその先が恐ろしく、表向きは協力するという態度を誰一人とれませんでした。


私たちは、これ以上話しあいによる穏やかな交渉を何回重ねてもラチがあかないと考え、雪溶けの4月初めの雨の降る晩に、30人近い青年たちが藁ケラを着て地主の家に集団交渉のデモをかけました。


雨の降る晩の夜中に藁ケラを着た若者たちが30人も集団で押しかけたものですから大騒動になって、私は家宅侵入罪ということで訴えられ警寂だ引っぱられてしまいました。


私の子供のころは、今のように自動車自転車はなかった歩く時代でしたから、地主と小作人との関係は地主のダンナさんや奥さんが道を歩いていると、50メールごとにある電柱の1本分ぐらい前方から、服装を整えてあいさつをする準備をしたものです。


手ぬぐいでほっかむりしているときは冬でも取ってあいさつするというような時代でした。

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         <link>http://pgvlaw.com/2011/04/3_1.html</link>
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         <pubDate>Wed, 27 Apr 2011 12:52:34 +0900</pubDate>
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         <title>終戦直後の農村　2</title>
         <description>借りるというのは、今の高利貸よりも高いもので、1升借りてその年の秋に2升で返す。


そんな高利貸が農村の中にあったわけです。


恩賜郷倉は恩賜金で建てた米の保管倉庫で利子なしで夏米を貸す救済倉庫でした。


今流に言えば災害復旧の救済補助金みたいなものではなかったのでしょうか。


戦前は東北の各地にありました。


ところで私の村には大地主が3人いて、その3人の地主が村の政治を牛耳っていたわけです。


その恩賜金で米の保管倉を建て、そこに自分たちの米を積んで、夏枯れ期に困った農家に貸し付け、高い利子をとっていました。


戦後、米が統制になり、地主も米の保管ができなくなってその倉が遊休物になっていました。


私たちはそれに目をつけ、これを青年会館に開放してもらうことを考えつきました。


12坪くらいの広さの倉でしたから、青年の集まるところとしてもよいし部落の集会所としても大いに助かると考えたわけです。


そのころ、地主と交渉する人というのが誰もいなかった。


そこで私たち20歳前後の若者が地主に開放を求めて交渉をはじめたわけです。


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         <pubDate>Sun, 27 Mar 2011 12:51:42 +0900</pubDate>
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         <title>終戦直後の農村</title>
         <description>今から60年前の終戦直後の農村というのは、朝から晩まで働いてもまだ働きたりないという手労働の時代でした。


演劇のための練習時間は夜しかありません。


しかも指導者がいるわけでもない手作りの農村劇ですから、やくざ踊りとかやくざ芝居に拍手する人はいても、私たちの劇に拍手する人は少なかった。


それでも私たちは、村に生きる魂を農村劇にして演じながら訴え続けました。


それから30年後の昭和51年9月、農村劇からスタートした義民顕彰運動、・私の部落に義民名左衛門の顕彰碑をたてました。


そしてこれまで農運動や社会運動にたずさわってきた私たちの心の中には、この名左衛門の思想が生きてきたわけです。


私自身の生き方の中にもいろんな深いかかわりをもってくることになるのです。


私たちが農村劇、読書会、文化講座を開くときに自由に使える会場がないために、寺の本堂や神社の長床などを使ってろうそくを灯したところでやるしかなかったものです。


部落の中でこのような集会ができる会場が欲しいというのが私たちの希望でした。


私の村には恩寵郷蔵という倉がありました。


戦前から東北の農村はたびたび冷害に襲われ凶作に苦しみ、その年の夏に手持ちの米がない農家が多かった。


そのため多くの農家が夏米を借りるわけです。


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         <link>http://pgvlaw.com/2011/02/post_31.html</link>
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         <pubDate>Sun, 27 Feb 2011 12:47:43 +0900</pubDate>
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         <title>新株引受権付社債の引受権行使</title>
         <description>新株引受権付社債とは、社債権者が起債会社に所定の条件で、新株発行を請求できる社債です。


新株引受権付社債には、新株引受権と社債とが、分離して売買される分離型と、売買できない非分離型とがあります。


分離型の場合には、新株引受権が独立の有価証券として売買されます。


この方法によれば、発行会社は新株引受権付与により、社債を有利に発行でき、さらに、現金払込制により、権利行使時に追加資金調達もできます。


また、投資家にとっても、社債の安全性と、新株引受権行使によるキャピタル・ゲインが得られます。


手続きでは、新株引受権付社債の発行においては、転換社債発行に類似した手続がとられます。


新株引受権付社債発行後、一定期間経過後に社債権者は新株引受権の権利行使ができ、この場合、社債権者には新株引受権行使請求書を会社に提出します。


そして新株発行請求後に、新株発行価額の全額を払い込みます。


分離型で現金払込制の場合には、社債権者が新株引受権付社債に添付されている行使請求書に所定事項を記載して、所定の金融機関に社債券とともに提出し、現金で払込ます。


分離型で代用払込制の場合には、社債券に添付された代用払込請求書と社債券とを行使請求受付場所に提出します。


他方、非分離がtで現金払込制の場合には、社債券の提出は不要です。


新株引受権証券を提出し、現金払込を行います。


非分離型で代用払込制の場合には、新株引受権証券と社債券を提出します。


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         <pubDate>Wed, 19 Jan 2011 12:21:13 +0900</pubDate>
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